「どうしてセラピストになったのですか?」とよく訊かれます。何かの理由と言うより

生まれた時から、このように生きるよう「流れの中」に置かれたのだと思います。

その「流れ」の一部をお分けします。

 1歳10か月で生母と死別し、子のない夫婦に養女として引き取られました。養父母は「良心の呵責」を知らない人で、人が苦しむ姿を見るのが好きな人たちでした。その虐待的環境で唯一祖父に溺愛されました。玩具の無い家で、身体の機能が遅れていた私は「かたわ」と言われ、子どもたちの外遊びに加われず、「目をつむって瞼の裏側に動くイメージ」で遊ぶのが好きでした。この頃に瞑想が始まっておりました。外に出られない私に楽しみを与えようと、祖父が家の中にブランコを作ってくれました。私にとってこのブランコは「愛情の象徴」です。

 いつしか、「イメージの不思議な世界はすごい所と繋がっている」と子どもながら気づきました。汚い言葉で罵られる日々の楽しみでした。『何のために生きているのか。私はどこから来て、どこへ行くのか。』そういうことばかり考えている、誰とも話が合わない変わった子でした。

 家だけでなく、小学校1年~3年まで、担任がクラス全員に私を無視させました。私だけ絵も習字も一度も掲示されません。無視に気づかぬふりしてニコニコして過ごしました。今思えば、小学校で習ったことをスムーズに思い出せるのは、こんな扱いを受けていながらも、教室の中に置いてもらえたから、私は何食わぬ顔で勉強を学びとっていたのでした。

 「養父の弟夫婦」の指示により、中学校~高校までの6年間、父母は私と口を利かず無視し続け、夜は電気を使わせてもらえず、罵倒されました。叔父は私を悪者に仕立て上げ、親戚中に私の悪口を言い広めましたが、子どもの立場の私には釈明することができませんでした。

 中学校では上級生にいじめられましたが、打たれ強くなっていた私は気にならなくなっておりました。先生方に認めて頂けて、学校では救われておりました。

 それにしてもオカシイ右を向いても左を向いても虐められるなんて…これにはきっと、ただならぬ意味があるそんな気がしました。高校2年生の頃、本によって「仏教」に出会いました。

 電気を点けることを許されず、家族が寝静まった暗い仏間で掌を合わせました。

「私が間違っているのなら、何が間違っているか教えてください。間違っていなければ、この家から出してください。」(家出ではなく、正当な形で家を離れたかった)

 就職した翌月に辞令が出て、上京するため堂々と家を出ることができました。その後、職場のパワハラに1年半耐えました。その頃、二か所の産婦人科医の誤診で妊娠を告げられ、身に覚えがない私は気が動転し、追い詰められ、死のうと思いました。「高校の同級生は皆、進学して私だけ就職。どこへ行っても、何をしてもうまくいかない。こんな私でも、このまま包んでくれる観音様のような人がいてくれたらな・・・」渇いた心で死ぬ間際にそう切望した時

そういう人に、私がなろう! 観音様のような人に私がなろう!そのために生きよう!と思い、死ぬのを辞めました。

 これが今でも私の生き方のベースになっております。(翌朝出勤したら、労働基準監督署が入っており、私は異動が決まりました。後輩が告発してくれたのです。)

 退職後、実家に戻ってすぐにお見合いで結婚が決まり、再び上京することができました。結婚によって初めて「安心できる居場所」を得て、人生が大きく好転しました。しかし、長い間の虐待を誰にも言わずに抑圧していたため、安心できる場を得た途端に我慢の蓋があいて、過去の辛い出来事や言葉が一偏に噴出して感情のコントロールを失い、家族に迷惑をかけました。

 仏教の師に尋ねました。「生母の急死に仏様の答えはありますか?母の死によって地獄に投げ込まれた私に、母の死の意味を教えてください

【仏様に答えはありません。あなたがどう受け取るか、それが全てです。】と言われ、

それなら、私が体験した全てが無駄にならず活かされる生き方をしよう。母の死の意味を最善に実現しよう』と決意しました。根拠はなくてもそれができるとわかっている強い意志でした。

 40歳を過ぎた頃、親戚中に悪者にされてきた私が本当はどんな人かを知られる出来事が発生しました。自分の正しさを証明しようとしなくても、天の計らいで自然にわかってもらえたことで、私は『なりゆきには善意がある』と信じられます。これは大きな力(大安心・根源への信頼)となっております。

 幼少期より逆境を与えられ、虐待する親を与えられ、様々な形で虐げられる体験を与えられ、反面では溺愛してくれる祖父に守られ、逆境を越えるように人徳者との出会いを賜り、自分の努力を超えて幾度も奇跡的に引き上げられてきた人生でした。

 理不尽に耐えることで「免疫」を与えられ、求めずとも必要なものは与えられ、出会いを賜って、生かされました。天に私を捧げ、問いかけ、委ねて、祈って、使って頂いております。これが私の「命の使い方」です。