「与える」ばかりが愛ではありません。

動けなくなった自分が、世話してもらうことも愛です。

困っている時に助けてもらうことも、愛です。 

娘が常勤で働いている間、孫の保育園の送迎を頼まれたり、

飯を食べさせてお世話できるとは、なんと果報なことでしょう。

無理だったら断りますよ。(私は断ったクチです)

親の手を借りて働いていることを「引け目」に思わなくていいのですよ。

がんばっているわが子の役に立てるなんて、お幸せな親御さんですね。 

その幸せ、誰でも当たり前に享受できるわけではありません・・・想像できるでしょう。 

 

老いたわが身の世話をしてもらうのに、娘なら気兼ねがない・・・と

<嫁は仕事が忙しいだろうから>と理由をつけて、しょっちゅう娘ばかり頼って・・・

頼まれないお嫁さんの<いたたまれなさ>はどうでしょう。

<お義母さんは私より娘さんの方が良いのね。私じゃダメなのね

頼んでもらえる関係は、時には迷惑に感じても、そこに愛があるように感じます。

 

先日、若い女性の方に、「愛って何ですか?」と訊かれました。

本人の了解を得て紹介します。

あなたが生きているだけで「愛」なの。あなたがいるだけで「愛」なの。

仕事が終わったら、あなたがいる家に帰るのが嬉しいってご家族が言っていたわよ。

体調が良くなくてたくさんお料理を作れない日でも、

あなたがいるから帰るのが楽しみだって! 

生きているだけで、そこにいるだけで愛なのよ。

 ただし、暴力や借金癖のある家族に「いるだけで愛」と私は言えません。

 一人の借金癖のために、家族が必死に守っているものを全て失うことがあります。

 家族に「死んでくれ」と願わざるを得ない人がいるのも現実です。

 

愛は相互の間に生じるもので、「与える愛」だけでなく「受け取るのも愛」です。

例えば、教室で真剣に先生の話を聴くことも、愛です。

教える先生だけが愛を行っているわけではなく、聴いている生徒も愛を行っているのだと。

すると若い女性の方は瞳を輝かせて言いました。

「そういえば思い出しました! 返ってきた答案用紙に、先生から赤い文字で

 『いつもよく聴いてくれてありがとう。先生はとても嬉しいです。』

と書かれていて、すごくびっくりしました! 

授業を真剣に聴いていると、先生が嬉しかったなんて!」

 

相手を理解しようと「聴く心」「寄り添う心」「添おうとする態度」は愛ですね。

ところで「寄り添う」って、どうすることでしょう。

例えば、落ち込んでいるその人の今の気持ちをそのまま一緒に感じること。

「・・・だよね」「・・・なんだね」「・・・だったね」などというように、

「今ここ」に一緒に留まること。ひとまず それだけでいい。

落ち込んでいるその人を、どうこうしようとしなくていい。

一緒に添ってくれる人がいると、その先は本人の赴くままに・・・

安心して自分なりの行き先へ向かうことができます。

「・・・すればいい」「それは・・・じゃないの」「そんなこと気にしなくていい(笑)」

これらは一緒に留まることのできない人が言いがちなコントロールです。

コントロールを感じると、まるで落ち込んでいる自分がダメに扱われたと感じて、

「この人には分かってもらえないんだな」と心が離れてしまいます。

添えない時は、自分の考えが表に出て、目隠しされているかも・・・。

正しい自分の考えや、自分の都合が、本質的な関わりを邪魔することがあります。

寄り添うには限界があるものの、

「寄り添おうとしてくれる」心に癒されることがあるのではないかと思います。

良かれとばかりにポジティブな自分の方へ 相手を引っ張ろうとするよりも、

「今ここに一緒に留まる」 これにはネガティブに耐える力が必要ですが、

ここをスキップしてはいけません。