特定非営利活動法人 臨床パストラル教育研究センター発行の スピリチュアルケア第56号に掲載された私見を 許可を得てここに紹介します。


ここで言う「スピリチュアル・カウンセラー」とは、 霊能者のことではなく宗教を超えて人間に元々備わっている霊性(スピリチュアリティ)に注目し、 深く心が通う関わりをするカウンセラーをさします。
スピリチュアル・ケアは、他者が答えを与えて導くような関わり方ではありません。
誰でも生まれながら深いところに備えている叡智の泉から 自分で気づきを汲み出す手伝いをする媒介にすぎません。


*********************************************************************

この人に良心があるのか・・・と驚くような人がおります。

人の善意を巧みに歪曲し、自分の利益に目敏く、平気で嘘を重ね、

身近な人を裏切ることに痛むことなく、 相手の身になることができず、

人を傷つけても自責の念がなく、 自分を省みることもない。

何より、一方的に喚きたてるばかりで 人の話を聴こうとしない、 会話が成立しない・・・。

そういう人が、人格障害と診断されているとは限りません。
仮に診断されても、有効な治療法がなく、家族や周囲の人のご苦労は計り知れません。 結婚した後に、配偶者がそうであったと気づく場合さえあります。

私自身そのような養父母に育てられ、大人になってからは仕事でそのような方に関わったことがあります。 現在はセラピストとして家族や周囲の人の苦しみに寄り添わせて頂いております。

<関わる人へのケア>

人格障害の方への対応は、こちらが「影響されないこと」だと私は思います。 過剰な要求を拒否する場合でも、 言葉で伝えようとすれば「からまれる(怒鳴られる)」なら、無言で流すのが一番です。
家族は一緒にいるだけで著しく疲弊します。 ご家族には、「一緒にいるだけで十分助けになっている」ことを伝え、 日々の労苦をねぎらい、「独りになれる場と時間」を確保することを勧めます。 (ヘッドホンの使用や、お気に入りの喫茶店などの隠れ家を見つけるよう提案することもある) それでも、足音が聞こえるだけで動悸がしたり、体が震えるようになったら、 一緒に暮らすには限界がきているといえますので、 ご意向に沿って、医師など第三者の支援を借りて物理的に距離をおき、 その後のことを模索します。 あくまでも本心に耳を傾け、時間をかけて寄り添わせて頂きます。
『もう、いいよ(できることは全てやった。これ以上は無理)』 という結論に至る場合もありますが、 『別れてそれで自分が幸せとは言えない。どんな形でも一緒にいることに意味があるように深いところで感じる。』 とおっしゃる方も少なくありません。

私を操作しようとする人は、無理難題を主張し、従わなければ私の悪口を吹聴し、 どんなに「皆に」悪口を言われているかを私に知らせ、 「従わないとこうなる」とばかりに脅迫的に操作してきます。
私は、「そんなことをしても無駄だよ」というメッセージを無言で送りたいので、無視します。 相手にそのメッセージを送れるのは、私以外にはおりません。 無視といっても、生活に困らない最小限の保証をしながら、 コミュニケーションの面では「言わせっぱなし」にさせて反応しません
私の体験から言えることは、次のことです。


①無視する自分に苦しまないこと   ⇒無視している自分を責めなくていい。  無視する(黙って流す)行為にも、それ以外の手段では伝えられない意味(愛)がある。  相手に害されない(害させない)で自分を健全に保護することも愛です。


他者に悪く思われることを恐れないこと ⇒自分の正しさを証明しようとしなくていい。  ただし、自分を証明しようとせずとも自然な心持でいられるには、  「わかってくれている人」の存在が不可欠です。  スピリチュアル・カウンセラーは、  聴かせてくださる方の想いを、我が想いのように感じ、支持します。


③ 無力を知ること ⇒自分の努力ではどうにもならないことがあると認め、  

『祈りを添えて、大いなるものに委ねる』ことが、無力な私の対応です。

<ご本人へのケア>

本人に自覚がなくても、脳の一部に機能の欠損があり、人格が障害されていると思しき方へのスピリチュアル・ケアは、 生きているうちには困難で、死後、天上で初めて自らの行いを振り返って知ることがあるだろうと信じます。器質的な欠陥を持って生まれたことに霊的意味があるとすれば、肉体の死をもってその「役割」から解放されます。死してようやく、自分自身の在りようと、他者との関係を客観視できるのかもしれません。

例えば私と養父母の霊的関係性は、『虐げられた人の苦しみを聴ける人として私を育むため』の天の采配によるものであったろうと思われます。

自らの行いを顧みることが器質的にできなかった人が、この世を離れてから初めてそれを行う際に、その厳しい体験が<愛の見守りの中で>行われるよう祈ります。どんな親であったにしろ、セラピストの資質を育む環境を実現してくれたという役割に価値はあります。


(死ななければ分からない人もいる)そういう意味で、「死」もまた希望だと思います。

『大いなるものに委ねる』際の『祈りを添えて』とは、たとえ今生ではないとしても、 いつの日か真実に目覚める機会があると信じ、絶対者に委ねるのです。 その方が目覚めて、良心をもって生きる姿を思い描き、 いつの日かそうなると信じて絶対者に渡します。

魂に輪廻転生があるなら、人は平等に、 ありとあらゆる境遇を生きるように仕組まれているといいますから、 過去生に、他ならぬ私が人格障害者で、多くの人に迷惑をかけたかもしれません。 もしそうであったなら、疎まれながらも私は他人にどうしてほしかったでしょう。

仏教では、人の心は絶えずコロコロと六道を輪廻するといいます。 争いの心に占領された「修羅」の姿も、 欲に支配された「餓鬼(がき)」の姿も、 無知なる「畜生」の姿も、 邪念に蝕まれた「地獄」の姿も持ち合わせている、どうしようもないこの私だけれど、 願わくは、嫌われながらでも相手にしてほしかったかもしれません。

やがて関わる側の痛みが癒え、相手と「適度な距離をとる」余裕ができれば、 電話は無理にしても、たまには贈り物や絵葉書などを送ることも、 「あなたのコントロールは受けないよ」と態度で示すひとつの行為ではないでしょうか。 他人であれば接触を断つことができますが、同居の家族であれば、食事を提供するなどの必要最小限のコミュニケーションは断つことができないでしょう。 一つ屋根の下で完全に無視し続けるならば、それ自体、 既に操作され、害されていることだからです。

何を言われても平気でいられるようになるまでには、 「自分を悪く思われたくない」など数々の執着を手放すことになり、とりもなおさず、 それは、関わるこちら側が「成熟へ向かうプロセス」を生きることに他なりません。