不登校で悩んでいるお母さんは、
「明日は行けるだろうか…」と眠りに就き、
朝が来るのが怖いですよね。

朝になれば、「今日は行けるだろうか…

気持ちを聴いても話さない。(話せない…
カウンセリングも受けた、セラピーも受けた…、
これほど手を尽くしても、子どもの意志が動かない。
これ以上、何をしてあげたらいいの…?

息をするのも苦しいですね。
(私もそうでした… 「もう朝が来なければいい」と思いました。)

そんな全国のお母さんは、今

「お母さん」から「お袋」になろうとしているのかもしれませんね。

もう、親のどんな願いをもってしても、子どもを願いの通りにできない…

子ども自身の決定には関与できない…
色んな形で、親のコントロールがきかない時がやってきますが、
不登校という形で、その時が来たのですね☆☆☆

登校しなくても、
思わぬ病気になっても、
(無意識が)何を選んだお子さんでも、
そのままを抱えてあげられる
きな袋」になる時期が来ているのかもしれません。

それこそ「お袋」になる時ですよね。

お子さんは、親を成長させる役目を担ってくれているのかもしれません
(私にとっては結果的にそうでした。)
願いの通りにならない子どもを見るのが辛いですね。
子どもの修行に、親が巻き込まれて、自分が苦しくなってしまうのね。

「今日、登校できなくても、私の子であることに変わりない!」
「たとえ、このまま登校できなくても、
私の子どもであることに変わりはない。」…よね?

不登校、病気、成績がよい、金持ち、美人、肥満…
それらは「状態」であって、「その人」ではありません
「どんな状態のときも、私の子どもだよ。
その苦しみから何かを掴むと信じて、待っているよ。」

「完璧でなくていい。 阿呆になっていいよ、楽になれ!
何があっても受け止めるから、大丈夫!」

「結果がどうなっても、親の願いの通りでなくても、一緒に生きるよ。」
と、頭だけでなく、親の腹がすわったら、お子さんに変化が起きるかも…。

私にとっては、そういう修行でした。

そういう修行をさせられた子どもが、今になって一番私を助けてくれています。
不思議なものですね~。

親が「今ないもの」を求めていると
「これではダメな自分なんだ」と、子どもは益々自分を信じられなくなりそう…。

この子は今、生きてそばに居る。

仕事を頼めば手伝ってくれる。

○○○が上手。

「今あるもの」をありのまま恵みと受け入れよう!

自分を信じる力は、「当たり前の小さなことを認めること」から始まります。

幸せは、失ってみなければ気づかない「当たり前のこと」に隠れています。

ど~んと来い
ちょっとやそっとで動じない 「お袋」 になりますよ。

その時、子どもを丸抱えで信じられる親になれるのかもしれません
その時、子どもは
「丸抱えされている自分」を安心して信じられるのかもしれません

私の道のりは、そうでした。

今この子は生きてそばにいる、それだけで「満点」なんだよ。

「お母さん、もうしばらく待っていてほしい。時間を下さい。」
そう言いたい時なのかもしれませんよ。

後で振り返ったときに、
「あの頃、家にいられてよかったな…。」
と思い出せるような時間を過ごさせたいと思っておりました。

子どもを見て、その結果が確認できたのは、ずっと先のことでした。
それまで、とことん、「待つ」修行でした。
結果を焦らないで。

「教育も子育てもいのちに向かい合うのは、
『スローペース』でないと芽は育たない
というのが実感です。
相手の成長を見守り、じっと耳を傾け、ひたすら信じて待つということでしょうか。」
(内藤いづみ医師著 「『いのち』の話がしたい」より)